令和7年3月11日の日記

日記
2025年03月11日

東日本大震災から14年が経った。あの日のことは、時間が経っても鮮明に思い出せる。

当時も今と同じく横浜に住んでいた、小学6年生だった。卒業を控えた時期で、みんな少しそわそわした雰囲気だった気がする。地震が起きたのは午後の授業中。最初は「ちょっと大きいな」くらいだったけれど、次第に長く、強く揺れた。机の下に隠れたものの、思ったより冷静で、そこまで怖くはなかった。

揺れが収まった後、校庭に避難。校舎は無事だった、先生たちは慌ただしく動いていたけれど、周りの友達とは「びっくりしたね」くらいの会話をしていた。低学年の子たちは泣いている子もいたけど、自分は案外平気だった。

その後、集団下校で家に帰った。道中はいつもと違う雰囲気だったけれど、まだ「とんでもないことが起こった」という実感はなかった。

だけど、家に帰ってすることもなく、何気なくテレビをつけた瞬間、すべてが変わった。

画面には、津波が町をのみ込む映像が流れていた。黒い波が建物や車を押し流し、屋根の上で助けを求める人の姿。信じられなくて、ただ画面をじっと見つめた。しかも、画面の上にはけたたましく避難指示のテロップが次々と表示され、画面の端には「震度○」「津波警報」「余震注意」などの文字が並んでいた。アナウンサーの叫び声のような大声と、ただ無機質な警報音と流れ続ける映像。異常だった。「これ、本当に現実なの?」と感じた瞬間、ようやく事態の大きさに気づいた。

しばらくして、母が帰ってきた。遅れて帰ってきた母は、無事だったけれど、顔色は悪かった。「職場がパニックで大変だった、子供がいたから早く帰らせてもらえた」(当時母は介護施設で働いていた)と話していた気がする。でも、その言葉が頭に入ってこないくらい、まだテレビ画面に映る光景が信じられなかった。

そして、父が帰ってこなかった。電車が止まり、帰宅難民になってしまったのだという。母が何度も電話をかけていたけど、つながらない。

「迎えに行ってくるから、家にいて」と言われ、母は車で出ていった。

家に一人きりになり、テレビからは津波と原子力発電所のニュースが流れ続ける。どこか遠い場所で起こっているようで、でも確かに日本で起こっていることで、理解が追いつかない。でも、なんとなく「今は普通の状況じゃない」ということだけは分かった。電気はついているのに、なぜか暗く感じた。静かすぎて、家の中の時計の秒針の音がやたら大きく聞こえた。すごく心細かったのを覚えている。

日付が変わったころくらいだと思う、母が父を連れて帰ってきた。疲れ切った顔をしていたけど、無事だった。それを見て、ようやくほっとした。

それから、余震が続き、計画停電が始まり、スーパーの棚から食料が消えた。世界がいつもとは違うものになったような感覚だった。

14年経って、あの日のことを話す機会は少なくなった。でも、あの時テレビをつけた瞬間の衝撃と、家で一人になった時の心細さは、今でも忘れられない。

地震は「忘れた頃にやってくる」と言うけれど、あの日のことを忘れることはできないと思う、それくらい強烈な出来事だった。

震源地から遠く離れた場所でもこれなら、被災地はどんなに大変な思いをしたのだろう、そう思うとなんともやりきれない気持ちになる。

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